![]() 現在、いわゆる『超能力』というものが、科学的に蓋然性の低いものとして扱われているのは、実験室のような、客観的に管理された環境下での現象の再現性が極めて低いという事実に基づくものです。インチキのできうる余地をなくして、その能力をいつでも再現できた『超能力者』というのがいまだ存在しないということです。残念ながら。 (別に『超能力』を否定したいわけじゃないですけど。あったらいいと思う) さて、まさにその、『管理された環境下』とおぼしき一室から、大人たちの目の前で、生物学的にあり得ない形に分割して消えていく少女。これが、今度の我らが主人公、やまぐち葉菜ちゃん。おかっぱ頭もあどけない小学校3年生。 葉菜ちゃんが『ジャンプ』して行く異世界は、我々の世界と根本的に異質なわけではなく、むしろこの世界の変形のような、どことなく見覚えのあるような奇妙な世界。何となく、悪夢の中のような、現実世界のモチーフが変形したような世界。 そして、そこで葉菜ちゃんが体験する事柄も、常に、知らない何者かに知らないどこかへ『連れて行かれ』そうになるという、共通したモチーフを持っています。 『教授』と呼ばれる人の助手らしき人が、葉菜ちゃんの体験を『妄想』と疑うのも無理のないところ。本当に『平行世界』なるものがあるとして、そこにランダムに跳ぶとしたら、人間の生息不可能なところへ跳ぶ確率の方が圧倒的に高いはず。一番確率の高いのは、真空。そうでなくても、水中、地中、空中。下手をすれば反世界にジャンプして、体重分を純粋にエネルギー化した光となって一瞬で消滅しないとも限らないはずです。 しかし、実際にはジャンプする子供たちはたいていは無事に戻ってくるらしい。既に葉菜ちゃんも600回のジャンプを体験して、全て生還している様子。大人たちはこの現象を『病気』として扱い、『治療』と称して葉菜ちゃんにジャンプを繰り返させますが、その度に怖い思いをして帰ってくる葉菜ちゃんは、ついに癇癪を起こしてしまう。 富沢ひとし作品の子供たちは、大人になった我々からは『我儘』としか見えない子供の気持ちが、本人にとってはどんなに切実なものであるかを、子供だったことを半ば忘れた我々に思い起こさせてくれます。時には極端なまでのデフォルメさえも用いて。 大人たちから一方的に強制される『役割』や『成長課題』に適応できない子供にとっては、日常さえもがどれだけ恐怖と苦痛に満ちているかということ.を、落ちこぼれ少女ゆりちゃんの目を通して描いた『エイリアン9』のように。 通院を嫌がって駄々をこねる葉菜ちゃん。でも本当はお母さんを困らせたくて言っているわけじゃない。葉菜ちゃんが本当に望んでいたこと、それは意外な形で現れてくることになるのです。 教室でついうとうととした葉菜ちゃんの前に現れた一人の少女。他の誰にも気づかれることなく葉菜ちゃんに接触した謎の少女は、葉菜ちゃんに、自分の好きな世界へジャンプできる方法<行きたい世界を念じること>と、そのためのアイテム<赤いリボン>をあたえて姿を消します。 一か八か。このイヤな現実を変える方法に賭ける葉菜ちゃんは、赤いリボンをつけて、『お菓子がいっぱい』の世界へのジャンプを試みます。無数のイルカに引きずり込まれる、見たこともないビジョンとともに、葉菜ちゃんはジャンプします。 自分の本当に行きたかった世界へ。 そこは、いつもの自分の家、自分の両親、自分の学校、自分のクラス。でもただ一つだけ違っているのは、あのイヤな、ジャンプする『病気』が、はじめからなかったことになっているということ、それだけです。 葉菜ちゃんの背中を後からつついて、おどけて見せたり、居間でゲームに熱中するお母さん。大きな声をあげて笑うお父さん。葉菜ちゃんが病院に行く朝の、暗く沈んだ朝食風景とは対照的な明るい両親の姿は、葉菜ちゃんが『病気』になる前そのままなのでしょうか。 葉菜ちゃんを苦しめていたのは、怖いところへ行く『病気』もさることながら、自分が悪いわけじゃないのに、自分のせいで、両親を悲しませ、暗くさせてしまっているということだったのでしょう。この世界にかすかな違和感を感じながら、大きな安堵感と幸福感に包まれた葉菜ちゃんは、自分をごまかして、この世界を自分の世界だと思い込もうとします。 しかし、この世界には、実はもう一つ違いがあったのです。 この世界の葉菜ちゃんは、元の世界では付けていなかったはずの、大きな『赤いリボン』がトレードマークとなっているのです。この世界は、『リボンを付けた葉菜ちゃん』の世界であって、本当の葉菜ちゃんの世界ではないということを、周囲の人々が葉菜ちゃんのリボンに言及するたびに、葉菜ちゃんは意識させられます。それでも、必死にこの幸福な世界にしがみつこうとする葉菜ちゃん。 再び現れた謎の少女のダメ押しの一言で、葉菜ちゃんはこの世界が別の世界だということを思い知らされます。本当の世界の、自分の病気のことをちゃんと知っていて、心配してくれている本当の両親のところへ帰りたい。この世界と決別し、元の世界へ戻ろうとした葉菜ちゃんは、しかし、謎の少女からあたえられた警告『帰るときはリボンをはずすのを忘れないで』を忘れて帰ろうとしてしまいます。 おそらく、このリボンは好きな世界に行くためのアイテムではなく、本当の世界そっくりの、自分に都合のいい世界に行ってしまったときに、それが本当でないことを教えるための<符号>のようなものだったのかもしれません。 リボンを外さずに帰ろうとしてしまった葉菜ちゃんは、さらに別の世界『リボンを付けていない自分の病気が治った世界』へとジャンプしてしまいます。しかし、そこでは『リボンを付けた葉菜ちゃん』は余分な存在として余ってしまっていたのでした。お母さんと嬉しそうに話す、リボンをつけていないもう一人の自分を見てしまった葉菜ちゃんは、自分の居場所が無くなってしまったショックでそのままもう一度ジャンプしてしまいます。 謎の少女からあたえられたもう一つの警告『連続ジャンプも厳禁よ』も破ってしまった葉菜ちゃんは、帰るべき世界を見失い、さまざまな世界をあてもなく跳び続け、ついには疲れ果てて倒れ込んでしまいます。 倒れた葉菜ちゃんは、巨大な異形の生き物にわしづかみにされ、どこへともなく連れて行かれてしまうのでした。 前作同様、さまざまな暗喩や寓意がちりばめられて、安易な解釈を許さない作りになっています。だからここでのまんりきの解釈も、あくまで現時点での暫定的な解釈に過ぎません。 この物語で描かれる『平行宇宙』(?)の正体については謎だらけですが、富沢ひとし作品にはまるタイプの読者が求めるのは、世界の『設定』や『説明』などではなく、描かれる『意味』でしょうから、それについてはこれから存分に楽しませてもらえることでしょう。 今の時点で重要なファクターに見えるのは、自らの思惟によって『世界』を選ぶというモチーフではないでしょうか。これは、ある意味では『エイリアン9』と対極にあるモチーフだとも言えます。『エイリアン9』が描いたのは、どんなに理不尽で不条理な世界でも、人は生まれてくる世界を『選べない』存在だということでした。あの非情な世界の中で、いかに『自分が自分であること』を勝ち取るかということが、あの物語でのゆりちゃんやくみちゃんやかすみちゃんの戦いの意味だったように思えます。 『ミルククローゼット』では行くべき世界は無限個の中から選べるのかも知れません。しかし、選べるという『自由』は、実は選べないことに勝るとも劣らぬ、恐怖と苦痛を伴うものなのかも知れないのです。 『エイリアン9』では、物語の始まる前の時代にあったと思われる『人間世界の価値観と倫理の崩壊と変容』。この物語では、ジャンプする子供たちを通してこれから描かれていくのか知れません。 さて、次は第2話 ![]() 近日アップ予定。
ミルクページ表紙へ戻るエイリアン9&ミルクロページに戻るまんりき王朝に戻る |