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2000/05


2000/05/31(Wed) 死亡
友達のウチで少し仮眠を取ってから帰宅。

で、工事がウチに入っていたので、寝れず。

イトコのウチのシベリアンハスキー、車にはねられ死亡。

こっちも疲れすぎで死亡。


2000/05/30(Tue) 跳び過ぎ
ひさしぶりにカラオケに行った。

盛り上がり過ぎ。

叫び過ぎ。

跳び過ぎ。

終電の時間はきちんと把握するコト。


2000/05/29(Mon) 研究と教育
立花隆は「脳を鍛える」(新潮社)の中で、大学教育もしくは研究活動について熱弁をふるっている。

彼は、大学とは与えられた教育を受け取る場というより、自分で自分を教育していく自己教育の場であると述べている。

さらに、大学は第一義的に研究の現場であって、教育はそのついでといっては何ですが、二義的な意味しか持っていませんとも述べている。

ボクはこれに対してスゴク違和感を感じる。

多くの大人は(もしかしたらボクも、もう大人というカテゴリーに入るのかも知れないけど)、最近の学生が「自ら学ぶ」という姿勢に欠けると批判する。確かに彼らの世代はウンウン唸りながら難解な教科書や、講義と格闘してきたのかもしれない。だからといって、彼らがやってきたような方法を、この時代が大きく様変わりした、現代の学生に同じように強いるのはナンセンスである。

立花隆が望んでやまない、知の拡大再生産のためには、そのベースとなるものを効率良く吸収するコトは不可欠であろう。何故ならば、学問が対象とするフィールドは広がり、そして深化する。更に情報は氾濫する。当然のことながら、インフォメーションリテラシー(もしくはコンピュータリテラシー)も以前とは比べ物にならない程、高度なものが要求されている。

確かに、一見すると、現実社会とは全くかけ離れ、一般的にいって、社会的有用性に乏しい研究も沢山あるだろう。

彼は、教授は教授で勝手に好きなことを教え、学生は学生でそこから勝手に刺激を受け、自分で学べることを自ら学んでいくコトが、本来のあるべき健全な関係であると述べているけれども、先人として獲得した知識を効率的に伝えていくことには、十分、社会的有用性があると思う。また、それによって社会的な有用性を獲得出来ると思う。

しかしながら、彼は、こうも述べている。

人間の文化活動のいちばんすごい部分というのは、たいてい社会的有用性ゼロのところで行われているんです。有用性はゼロだけど、ごく少数でも本当にその価値を認める人がこれはすごいというようなものを、どれだけ社会が支えてやれるか、そういうことがその社会の本当の文化水準を示すと思う。

全てをcost&benefitで考えることが、妥当だとは思わないけれども、自分のやりたいコトをひたすら追及するだけでは、costだけかけ、それを提供している社会全体として、ほとんどbenefitを得ることが出来ないであろう。

果たして、そのような一方通行の関係は、持続することが出来るのだろうか?

彼は、この本の中で、アメリカの学生と日本の学生の勉強量の差についても述べている。アメリカでは、大量のassignmentをこなすために、深夜までかかることも珍しくない、と。

勉強量という観点から見れば、日本の学生=勉強しない、アメリカの学生=勉強する、という単純な図式が成立する。しかし、教えている側の視点に立ってみたらどうなるだろうか?適切なassignmentを貸すことによって、効率的な勉強の手助けをしているという見方は出来ないだろうか?

例えば、semesterの最後に行われるevaluationでは、このclassが自分の能力を高める上で、役立ったかというような評価も行われるわけで、アメリカの大学では、立花隆が「健全の関係」という様な、学生と教える側の関係はあまり当てはまらない気がする。どちらかといえば、研究と教育を両立させようとしているし、積極的に効果的な学習というものを取り入れている気がする。そのような観点抜きで、旧来のスタイルを、ある種、ごり押しするのは妥当ではないと思う。

大学教授の仕事として、研究と教育はプライオリティーを付けるものではなく、並立的なモノであるべきだと思う。

学問とは、知の総体をふくらます作業であると、彼は述べているけれども、そのためにも教育は、学問の成果を効率的にフィードバックするべきだと思う。逆に言えば、教育の対象は学生に限らず、知の共同体に参加する人々全てであっても良いと思う。

ボク自身、彼の揚げ足を取ったりするつもりは全く無いけど、研究と教育に関しての彼の意見は、ある種の傲慢さを感じさせるものだった。


2000/05/28(Sun) 熱いヒト
若い年代の熱量が少なくなったと言われるようになって、ずいぶんの時が経っている。

60年代、70年代を通じては、学生運動という大きなうねりが、ある種のムーブメントとなっていた時代であり、その後はその時に見られたような、ある種の問題意識に対してのエネルギーは間違いなく低下してきたと思われる。もちろん、あの頃のムーブメントが自発的な行動によるものかどうかは、ボクは寡聞にして知らないし、ただ単にある種の流行だったというコトも否定できないだろう。

ただ、一般的に言って、そのようなエネルギーは低下傾向にあることは間違いない。

それは、反体制といったような反抗することでは、何も変わらなかったという反省、もしくはある種の諦めによるものかも知れない。だからといって、全く現代の若い世代がそういうことに対して、考えることを放棄してしまったかというと、それは大きな間違いだと思う。

ボク自身の実感としては、レベルの違いや、今いる環境の違いこそあれ、みんな結構考えているのではないだろうか。

友達の中にも結構、そういう熱い奴がいる。

即行動に移すことがbest responseとは限らないから、じっくりじっくりとそういうモノが実を結ぶことを期待しているし、ボク自身もそう成長したい。

そのためにも、そろそろ明日から勉強を再開しよう。


2000/05/27(Sat)
日本に帰ってきて、ダラダラ過ごしていると、周りとの差を実感してしまう。

多くの友達は、もう働きだして2年目に突入している。なんだかんだで、彼らは成長しているはずだし、毎日動いている。こっちはと言えば、確かに、semesterが終わった休みなんだけど、勉強しようと思って持って帰ってきたものにも、一回も触っていない。なかなか会えなかったりすると尚更そういうことを実感する。

それは、間違いなく、能力の差ってことではなく、単なる環境の差なのは明らかなんだけど、それらをごっちゃにして、内心焦ってしまう自分がいる。自分はみんなと違う道を選んだにも関わらず。

これは、去年の4月1日から感じてきたことだし、これからも感じ続けることなんだろう。でも、自分がやりたいことって言うのを忘れないようにしたい。


2000/05/26(Fri) アイスホッケー
一年ぶりぐらいに氷上に戻ってきた。

やっぱり、このスポーツはいつまで経っても止められそうにない。

ちゃんと滑ることも出来て、心配してたほど衰えてはなかった。体力以外は。

何だか、酸素が足りなくて頭が痛くなってくるぐらいだったけど。

それにしても疲れすぎて、2時過ぎから夜中の1時半ぐらいまでなが〜い昼寝をしてしまった。

6/3にはOB戦があって、また昔の奴等と一緒にプレーすることになる。


2000/05/25(Thr) 過去の記憶
この一年近く、ある意味、馬車馬のように一つのことに集中してきた。

当然その結果として、それ以外のモノに対してのウェイトは低くなり、下手をしたら、忘れてしまってしまうコトさえあった。でも、日本に帰ってきて、比較的ボンヤリと毎日を送っていると、いろいろなコトを思い出したりする。

昨日の深夜、大学の時のアイスホッケーのチームの試合を見に行ってきた。Buffaloにいたにも関わらず、アイスホッケーとは無縁の生活を送っていた。自分でやらなかったばかりでなく、TVを持ってなかったからSabresの試合を見ることもなかった。そして、一年ぶりぐらいにアイスホッケーに触れて、あの楽しさを思い出した。

アイスホッケーだけなく、いろんなコトを、ある意味、犠牲にしながらアメリカでの勉強をしていた気がする。その中には自分の気持ちだったりも含まれる。別に、それが負担だったわけじゃないけど。

でも、もし忘れていることを忘れてしまうならば、ボクはボクでなくなってしまうのかもしれない。必ずしもそれから産み出されるものがより良いものである保証はない。

もちろん、自分の目標に向かうことは、自分にとっても大切なことだけれども、自分で上手くバランスを取っていかなければ。

明日の早朝には久しぶりにアイスホッケーをやる。


2000/05/24(Wed) あいまいな言葉
asahi.comに、ある意味お約束といっても良いような、日本語に関しての記事が記載されていた。

記事によれば、「自分には...」とか「話とかしてた」というのは、「自分が間違った時に傷つかないよう、断定を避けて発言をぼやかそうとしているのではないか。相手と距離を置いて付き合いたいという、いまどきの若者気質も働いているようだ」という文化庁の見解が紹介されている。

また、記事の元になった調査によると、85%のヒトが「国語は乱れている」という認識を示していたらしい。それは、「言葉遣い」「若者言葉」「敬語の使い方」といった観点からのモノらしい。

でも、このような日本語に関する調査をすることになんの意味があるのだろうかと思ってしまう。

言葉は、それ自体が、形式となって意味をもつのではなく、その言葉が伝えるものに意味があるのだと思う。「的」や「とか」を使うことによって断定を避け、発言をぼやかそうとしているのだろうか?ボクはそう思わない。ある意味、自分の意見をきちんと表現している気がする。「自分的に...」っていうのは、「自分としては...」っていうコトを表しているのではないだろうか?それに、「話とか...」という言い方も、話だけではなく他のコトもしていたという意味ではないのだろうか?もし、そうならば、より正確に伝える、記述しているってことではないのだろうか?

少なくとも、ボクにはそういう風に受け取れる。もしかしたら、それが世代間の差なのかもしれない。

でも、言葉自体が固定的なものではなくて、液体のような流動的なモノだから、ある基準にのっとって、それに対してアレコレいうことはナンセンスな気がする。

繰り返しになるが、言葉自体の形式が重要なのではなくて、その言葉が伝えるコト、記述するコト、想像させるコトが重要な気がする。だから、極端な話、同じコトを表現するのに、まったく違った、ヘタしたら180度違う言葉でもいいのではないだろうか?

普通、「全然」という言葉は、「全然xxxない」とかいうように、否定の言葉を伴って使われる。でも、肯定的な意味でも使われる、「全然カッコイイ」みたいに。もともとは否定語を伴って使われていたのかもしれないが、次第にこのような使われ方もしてきている訳である。少し話は脱線するが、芥川竜之介の羅生門(だったと思う)にもそのような「全然」の使われ方が登場する。

それを見ても分かるように、別に「今の若者が」というような杓子定規な分析は意味がないのではないだろうか?

もちろん、形式としての敬語の存在というものは否定できないし、それが変化していくことが良いことかどうかは、ボクには分からない。でも、全体として、話し言葉や書き言葉などといった言葉自体は、生き物であると思う。


2000/05/23(Tue) 暴力性
ヒトはみな多かれ少なかれ暴力性や凶悪性といったものを、多かれ少なかれ、本来的に持っていると思う。

それは、単純な意味での暴力とは違ったモノで、また、性悪説が想定しているようなモノでもない。

ボクが意味するところは、例えば、high wayで車をとばすだとかいった、普通の生活のレベルを越えた行為である。

このような全てのヒトが持っているであろう、このような暴力性を認識しないかぎり、世間一般で言われているような問題、例えば17歳の少年の凶悪事件、に対するソリューションは得ることが出来ないのではないだろうか。

そんなコトをふと思った。

まだ、頭の中でカチッとまとまったものではないから、上手く説明できない。

もし、ちゃんとまとまったら、もう一度このことについて書いてみようと思う。


2000/05/22(Mon) インスパイアされるモノ
今日、webで2000 springの成績を確認した。

今セメも頑張れた。ちゃんと結果は付いてきていた。

この調子で頑張ろう。

______

日本に帰ってきて一番うれしいのは、日本語の本を沢山読めること。

しかも、不思議なことに全く意図して以内にも関わらず、自然と今の自分の関心事にリンクした情報が目に飛び込んでくる。

何故だかよく分からないけど、特別なことをしているわけじゃないけど、刺激的な生活だ。


2000/05/21(Sun) synchronism
すごく久しぶりに一つ違いのイトコとしゃべった。

ここ一年ぐらい、ずっと疎遠になってて、e-mailとかでもコンタクトを取ってなかったにもかかわらず、なんだか脳味噌の中にあることに同じようなものを感じた。

もちろん、それにはレベルの違いや表現の違いはあるけど、根本の所ではほぼ同じなモノであった。

当然、ボクが得意な分野があったり、彼の得意な分野があったりする訳だけど、一年近くほぼコンタクトを取ってなかったにもかかわらず、そういうことを感じたのはすごく不思議な気がした。

それにしても、彼は相変わらず沢山の引き出しを持っている。それは本当に尊敬に値することだ。


2000/05/20(Sat) リュウガクヲスルトイフコト
ふと、留学について考えてみた。

別に、一年近くたっての区切りとしてとか、そんな大層な目的はないのだけど、ふと駅から家までの道を歩いている時に頭の中に浮かんだ。

ボクなりに留学を捉えてみると、結局のところ、二つのコトに収束する。

一つは自分の気付いていなかったポテンシャルに気付くこと。

留学をしていると、必然的に、日本にいる時以上の努力を求められる。もしちゃんと勉強しようと思うならば、という条件付きだけど。不自由な言葉がその代表的な要因で、今まで以上の時間を勉強に割かなくてはいけない。すると、今まで無理だと思っていたことでも、やってみれば可能であったりする。自分が持っている自分の能力に関しての先入観を難無く乗り越えることができるのが、一つの果実だと思う。

もう一つの果実は、自分と向き合えること。

日本にいる時は、ある意味、日常に忙殺されてしまうことが多い気がする。それは、街の雰囲気であったり、友達との付き合いであったり、TVであったりする。そのような状況の中ではなかなか自分と向き合える時間を持つことは難しい。難しいというよりも、そういうことを考えてみようという気にもならないかも知れない。寂しくなれば、友達と簡単にあって時間を無意味に潰したりすることができる。

でも、どうしたって留学するとそうもいかない。いくら日本人が多いといってもね。当然、自分自身で解決しなければいけないことは沢山あるし、友達もそれぞれ忙しかったりしたら、かまってくれる時間もないかも知れない。

必然的に自分を掘り下げる作業をしている気がする。少なくとも、ボクは、この一年近く、そういう面が多かった。それは、日本ではなかなか出来なかったことで、ボク自身にとっては凄く新鮮なことだった。

これが、全てのヒトにあてはまるとは思わないけど。少なくとも、留学は勉強をする、英語を身に付ける、精神的にタフになる、などと言った以上のメリットがあることは疑いのないことだと思う。



2000/05/19(Fri) 嫌うコト
ヒトを嫌いになったり、無責任に批判することってすごく簡単だと思う。

誰だって完璧な訳じゃないし、誰だって、痛いところはあるはず。

辛口なトークと悪口は違うはずだし、違ってなければいけないと思う。

でも、その区別があいまいでただの悪口、無責任な批判ってすごく聞いててイヤなモノだって再認識した。

誰でも他人を批判することは出来る。でも、そういう悪い部分を認めた上で、良いところを見つけるのコトは一番難しいコト。

それ無しの批判は聞きたくない。

ネタとしての辛口と、批判は違う。


2000/05/18(Thr) 東京
はぁ、溜め息が出る。

何だか、東京で見る人はみんなおしゃれに見えてしまう。実際に、彼らがおしゃれかどうかは別にしても、確かなのはみんなお金をかけて、ずいぶんと気にしている。Buffaloにいたら絶対に感じれないことだ。

彼らを的確に表現しようとしたら、「おしゃれ」っていうよりも、「おしゃれっぽい」の方が的確なのかもしれない。確かにみんなきれいなカッコをしているし、悪くないと思うけど、何かが違う気がする。

これが今日、新宿を歩いていて感じたこと。また、渋谷とか原宿にいったら別の感想を持つのかもしれないけど。

今日は、本当に女の子のピンクが目に付いた。特にデニムとピンクの組み合わせは、飽きるぐらい見た気がする。そのコーディネート自体、悪くないと思うんだけど、あんな感じでみんなが同じようなコーディネートをしていると、ある種のユニフォーム的感覚に陥る。

アメリカに行った当初、日本人の方が洋服の組み合わせとかでずいぶんと多彩さの面で、上回っていると思っていたけど、もしかしたら日本もアメリカも、どっこいどっこいなのかもしれない。

もちろん、ボクが見たものがすべて、日本とアメリカの特徴を反映するわけじゃないのは当然だけど、(なんせまだNYCに遊びに行っていない!!!)でも、部分的にせよそういう特徴があることは間違いないと思う。


2000/05/17(Wed) 独りよがりの学問
以前、インドネシア人と話した。

彼女は、「ワタシは経済学はキライ、だって理論ばっかり何だもん」と言う。

確かに。おっしゃる通り。

でも、どんな学問に対しても批判することは簡単である。たとえば、考古学をやってるヒトに、「おいっ、おっさんそんな土ばっかり掘って何が楽しいんだ?オレらはもう過去の人間じゃないんだぜ、過去なんてどうだってイイじゃん」と言うことは簡単だろう。もうちょっと生産的な風味を付け加えて、「過去じゃなくて将来を向いて生きていこうぜ」なんて言うかもしれない。

実際に、そこに身を置いてない人間にとって、学問はなんの価値もないように思えるのかもしれない。特にプラクティカルな立場に身を置いているヒトにとっては。

でも、学問は結局のところヒト自らに対する興味以外の何物でも無い気がする。

そういう点で言えば、プラクティカルなものも、いわゆる学問と呼ばれるものも一緒だと思う。

でも、学問はえてして、ヒトの興味という重要な観点から乖離しがちである。テクニカルな議論のみに偏ったり、現実を無視したり...

結局、なんのための学問なのか、誰のための学問なのか、ってことを忘れないようにしないと、痛切に感じた。結局独りよがりの学問は、何の役にも立たない。



2000/05/16(Tue) 17歳
最近、日本では多くの17歳の少年による犯罪が報道されている。

今日の朝見ていたTVでは神戸の酒鬼薔薇事件との関連性も指摘されていた。

この一連の報道は、現在の17歳の少年による犯罪を加速させるのではないだろうか?

一般的に言って、人間の行動は意識的にせよ、無意識的にせよ存在する選択肢の中から選択されると思う。ボクがそれを実感したのは、大学を卒業するに当たって、就職するか、大学院に進学するかという選択をした時である。普通、大学を卒業した後は就職し、社会人となるというのが一般的な選択で、多くの人の中に大学院に進学するという選択肢は元々存在しない。

それは、ボクにとっても同様で、大学3年の時などは自分が大学院に進学することなど夢にも思っていなかった。ただ、普通のケースと違っていたのは、早いうちから大学卒業後の大学院進学という選択肢を無意識的に持っていたことである。オヤジが「これからは大学院ぐらい出ていないとダメだ」というようなことをボクが中学生ぐらいの時から言っていた。今から考えてみると、それは全く根拠のないことで、オヤジ自身がその言葉の影響について自覚していたとは全く思えない。

話は少し脱線してしまったが、つまり、ボク自身、大学院進学という選択肢を持っていなかったとしたら、大学院に行くという選択は出来なかったというコトである。当たり前の話だが、存在しないものを選ぶことは出来ない。

で、17歳の事件とこれがどう繋がるか。

普通、理由は何であれ凶悪犯罪を起こすという選択肢を持ち合わせていない。これは多くの人が同意してくれることだろう。では、なぜ彼らがそのような行動を取るのか?彼らが、ヒトを殺すという選択肢を持っていたからである、というのがボクの答えである。

性善説、性悪説どちらをとっても、ヒトを殺すという行為が本来的に選択肢に入っているとは考えがたい。では、なぜ彼らがそのような選択肢を持つようになったのだろうか?

それに対して、マスコミの影響というものは大きいと思われる。

基本的に、報道されるものはある種の記号性を伴う。

17歳。

社会に対する報復。

自己に対する認識。 etc...

それは、犯罪を犯したものが本来意図していたものよりも遥かに、彼らが持っているモノに対して、より直接的に訴えかけるモノとなっている。このような一連の報道は、存在していなかった選択肢を増やす結果になってはいないだろうか?

社会に存在する倫理と呼ばれるものは、ある意味、我々が行動を決定する際の選択肢に制限を加えているモノと考えることが出来る。しかし、倫理観が薄れていくにしたがって(その理由はボクにはまだ分からない)、選択肢を増やすような逆の力に対して、比較的敏感になっているとしても不思議ではない。

ボク自身が書いたものも、ある意味、ワイドショーの評論家的なモノだけれども、もっともっとpublicなワイドショーは、安易な分析、意味付けをして過度に報道することを控えたほうが良いのではないだろうか。


2000/05/15(Mon) 帰国
ただいま、日本。

でも、なんだか帰ってきた気がしないのは気のせいだろうか?今セメは忙しくて、時間が経つのも早かったし、なんだか日本に帰ってきたっていう実感がすごく少ない。

ところで、ちょっとした疑問。アメリカから出国するとき、なんの審査(?)もないのは何でだろう?出ていきたいなら勝手に出ていけ、ってことなのかな?それとも、ボクが気づかないうちにskipしているだけなんだろうか?アメリカ国内を移動する延長で日本まで帰ってこれてしまうのは、何だか不思議だ。

それにしても、長旅で疲れた。

昨日の日記に少し加筆



2000/05/14(Sun) 富の源泉
明日、いよいよ日本に帰るので、今日は徹夜。

っていうのも、徹夜したほうが飛行機の中で爆睡出来るし、時差ボケの影響も少ないと思うから。

で、この引っ越しでずっと忙殺されていた間出来なかった、考えたり、本を読んだりする時間が出来た。

この間帰ったときに、買ってきた司馬遼太郎の「アメリカ素描」を読み返す。

彼もボクと同じコトを10年以上前に感じていた。それは経済における金融の存在。彼は資本主義をモノを作ってカネに交換するシステムだと述べている。つまり、原材料を加工することで、付加価値を生み出し、それが富の源泉となるという捉え方をしている。

この考え方は極めてティピカルだと思うし、金融工学などが盛んにもてはやされ、ブラック・ショールズ方程式を取り扱った本がベストセラーになるようなこのご時世においては極めて保守的な考えなんだろう。そして、その考えに基づいて、金融のアメリカ経済全体に置けるウェイトの増加は次第に滅亡へと導くのではないかという、危惧である。

でも、ボク自身、実際同じような危惧を抱いている。

金融のコトを語るにふさわしい知識を十分に持ちあわせているわけではないので、極めて乱暴な議論になるかもしれないけど、結局のところ金融はゼロサムゲームであって、何も新たに生み出さないのではないだろうか?

簡単にいえば、世の中に存在するお金のトータルの量は一定だから、誰かが儲ければ、誰かが損する、ってこと。

確かに、経済学的にも経済が発展するに従って、農業の割合が低下し、製造業、サービス業の割合が増加するということが確認されているわけだけれども、金融のようなカネがカネを産み出すという仕組みは、果たして良いものなのだろうか?持てるものはさらに、裕福になり、そのチャンスに参加することが出来ない人との差は指数関数的に増大するかもしれない。

少なくとも、金融は現実経済が成り立つうえでのツールの一つに過ぎず、決して主役になってはいけないものではないかと思う。なぜなら、カネはヒトを狂わせるから。大金を目の当たりにして、正しい判断が下せるだろうか?それだけ、カネが持っている力は大きい。少なくとも金銭を一番のモノと考える価値観は決して持続的で生産的なものではないことは確かである。

でも、カネと情報というinputによって産み出される、既存の商品とは少し違った、金融商品という見方をしたときに、果たしてボクの考え方は妥当なのだろうか?

もしかしたら、ボクの頭が古い概念に支配されているだけかもしれない...


2000/05/13(Sat) OS9
なんだか、dormでInternetを繋いでた時(LAN使用)の時は全然問題なかったのに、新しい部屋に移ってきてPPP接続を試そうとしたら、どうしてもおかしいことがあるので、これを機会にOS9にアップデート。

でも、焦っている時にはするモノではなくて、ちょっと失敗。今までためたBookmarkをバックアップするのを忘れて、かなりゲンナリ。

基本的に情報って、必ずしも覚えてなければいけないモノではないと思う。一番大切なのは、どこに情報があるかを知っていて、それをどう使うか。

だから、ボクにとってinternetを使っている時のBookmarkはかなり大切な存在。

それが、無くしてしまったのはかなり痛い。うぅ。

個人的に使うために、定期的にwebにupしてたんだけど、今回のpaperを書くためにかなりのBookmarkが増えたから、前のは一番新しいのと100コぐらい違いがあるはず。しかも、Bookmarkをざっと見れば、自分が欲しい情報が手に入るようになってたから、具体的なサイトの名前とかをちゃんと覚えてるわけじゃないのが、難点。

もう一回Search engineを使ってさがしたとしても、元通りになることはないはず。

本当にバックアップは、コンピュータを使う上で大切だと思う。落ち着いてリインストールなり、何なりをしなければいけないと思った。

もうちょっと一般的に言えば、お金を払えば手に入れられるものって言うのはそんなに大切なモノではないっていうこと。自分が生み出した、ユニークなモノこそが一番大切だし、お金なんかじゃ到底解決できないもの。


2000/05/12(Fri) misc
やっとinternetに接続することができた。
不具合が多かったので、これを期に全てきれいにして、インストールし直した。

掃除機をゲットするはずだったのが、友達と連絡つかず。

眠すぎ。


2000/05/11(Thr) 現在状況
引っ越し中...


電話...不通

Internet access...不通

疲労...最高潮

終了予定時刻:未定

分析結果:

運動不足
対処法:日々の運動を心がけ、筋肉を適度に使うこと。
計画能力の欠如
無茶な計画は立てないこと。




2000/05/10(Wed) ヘロヘロ
やっと、spring semesterが終わった。もうヘロヘロ。

昨日の真夜中に日記を書いた後、今日のテストで必要な分析結果が十分でもないかもしれないっていう疑問に駆られて、図書館に行って、もう一回分析したりしてたし、なんせ前の日の二つのテストが利いてる。

しかも、今日は友達とその友達がNiagara fallsに遊びに来ていたので、pick upしに行ったり、一緒にBuffalo wingsを食べに行ったりで、一日中フル回転。そう言えば、帰ってきてから今までは、明日の引っ越しの準備をしてたしなぁ。(まだ全然終わってない)

思い起こしてみれば、何回も書いてきたけど、本当にあっという間に過ぎてしまったsemesterだった気がする。先セメを終わった時点では、「楽勝、楽勝」とか思ってたけど、それに比べると今セメはきつかったなぁ。なんせ同じ日に二つテストがあるっていうのは本当に堪えたし。

でも、自分なりのペースで徐々に成長している実感がある。もしかしたらそれは、他のヒトのそれよりもペースは遅いかもしれないし、レベル的に劣っているかもしれない。でも、それをキープし続けることは重要だと思うし、何かに惑わされることが一番バカている。

どうしても、「日本人」「留学生」っていう括りで話が進められることが多いけど、それぞれの目的の達成の仕方は、十人十色な訳だし、多くのヒトが何らかの目的を持って留学しているとしたら(と信じたい)、日本人なんだからxxxとか、留学生はxxxでなければならないなんてナンセンスだ。

当たり前の議論だけど、どういう風にしていたかではなく、何を得たかの方がよっぽど重要だけど、もしかしたら留学するということだけで知らず知らずのウチに満足しているのかもしれない。ボク自身、もっと色んなことに挑戦していきたいとも思うけど、どうしても生活が安定してきちゃうと、居心地の良さに満足しちゃうのは否定のしようがないし。


それにしても、疲れすぎたのか、寝たいと頭は思っていても体は寝たくないみたい。明日も盛りだくさんなのに。


2000/05/09(Tue) 湾岸戦争
今日、夜半頃Buffaloでは断続的な大雨と雷に見舞われました。

アメリカで始めて雷が鳴っているのを見たけど、いや、日本のとは比べ物にならない気がした。閃光が瞬いている時間が長くて、はっきりと稲妻の道筋を見ることが出来た。最後のテストに向けて、テスト勉強をしていたときのコトだけれども、やけに外が明るいなぁと思ってみてみると、稲妻が断続的に空を駆け巡ってた。

まるで湾岸戦争の時に、イラクがアメリカのパトリオットを撃ち落とそうと、当たりもしない高射砲を打ち続けていたCNNの映像の様な気がした。

この大雨と雷は、意外なおまけをボクにくれた。

ボクの部屋は、大雨が降るとカベから水が出てくるんだけど、見事にdormを出る2日前に、またあの悲劇に遭遇してしまった。ホントについてない。

でも、教授にすすめられて3ヶ月購読したものの、タダのゴミになってしまったWallStreet Journalがまたもや水を吸収し、部屋が水たまりにならない防波堤のかわりをしてくれた。

実際、ほとんどtopの記事以外読まなかったけど、こうなると元が取れるってもんだ。

それにしても寝ている間に、部屋が洪水になってないといいけど...


2000/05/08(Mon) ビバ!m&m's
わぉ!

ブラボー!!

もう、m&m's最高!!!

今日の朝はなにげに瀕死の状態だった。もう、フラフラ。重い教科書が入ったBackpackに振り回されている感じだったし、実際足下もおぼつかない感じ。図書館に着いても、全然勉強やる気せず。

もう、許されるものだったら倒れてしまいたいぐらいだった。

たぶん、昨日ハラが痛かったからほとんど食べなかったのが原因だと思うんだけど、それにしても血の量は足りない気がするし、最低だった。

これは飯を絶対食わなければいけないと思い立って、Burger Kingで無理やり詰め込んだけど、効果現われず。コーラだ、と思って飲んでみるも、コレまたイマイチ。

そう、そこで最後の頼みの綱、チョコレート、もといm&m'sを口にしたら、みるみる元気が出てきたのにはホントびっくりした。

真綿が水をしみ込む様、なんていうありきたりな表現じゃなくて、植物人間状態のヒトの体に元気がみなぎってきて、手を使わずに点滴の針を筋肉の動きだけで一斉に飛ばしてしまう、ってぐらいのインパクトをボクは受けた。

おかげで、朝は本当にフラフラで、友達にも心配されるぐらいだったのに、一日ちゃんと勉強できた。ほんとm&m's様々って感じ。

朝フラフラなときは、昨日まで張りつめていた気持ちもぷつりと切れてしまっていて、日本に帰って、リポビタンDでも飲みたいっ!って真剣に思ってたんだけど。

その時、思い出したのが高校の部活で走らされた日吉の並木道。あの時もこれと同じぐらい気持ち悪かったなぁと。

前に書いたけど、ヒトが相対的に物事を評価するとしたら、今までの型には当てはまらないようなモノに直面したとき、どうやって処理するんだろう?

たとえば、今日は「高校で死ぬほど走らされてた」時のコトと比較していたわけだけど、一番最初に辛い思いをしたときにはそれをどう受け止めるんだろう。全く違うものを当てはめて見ようとするのかなぁ。

だから、「初めてのキスはレモンの味」なんて言う、ヘンテコな表現が生まれるのかもしれないし、そういう時期を感性が豊かな時期と言うのかもしれない。



2000/05/07(Sun) なんとか復活
朝、起きてからもずっとハラが痛かったんだけど、なぜか復活。

でも、ホント、ハラが痛いときは集中できなかったから、これから馬力かけて勉強する予定。とりあえず、Econometricsの課題をSPSSでサクサクっと片づけたところ。

さぁ、また暗記モード突入。

それにしても、普通にパソコンを使う上で、macであることのデメリットを感じることは無いし、どっちかっていうと、というよりも全然便利だと思うけど、SPSSみたいな学術系のソフトがなかったりするとかなり困る。家でやるわけにはいかないから。

普段だったら、図書館に来ると、クラスメイトとかが居て、英語をしゃべるチャンスが増えるからいいんだけど、(日本語を話すチャンスも増えるかも)テスト勉強しているのときは勘弁。

だって、ホントに分かって無い奴とかに教えてくれって言われることほど大変なこと無いし、みんなあわよくば、まとめをコピーしようと虎視耽々と狙っているから。ボクのまとめでいいんか?って思うこともあるけど、逃げるのが大変になるから、できるだけ図書館ではテスト勉強したくないもんだ。

早く、静かな部屋に移りたい。

______

いま、自分のprofileのpageをチョロッと編集したときに気付いたんだけど、英語使ってるくせに、スペルミス&タイプミス多過ぎ。恥ずかしいったらありゃしない。


2000/05/06(Sat) ...
何故か腹痛...

でもテスト勉強...

全然収まらないのはどういうこと?

いてぇ〜。


2000/05/05(Fri) 記号性
糸井重里はこう書いている。

今日は子供の日だ。
子供の日というと、
暖かい家庭の仲のよい両親が、子供に愛情を注ぐような
イメージを思い浮かべたりしがちだ。
そういうものだ。画はシンプルなほうがわかりやすい。
しかし、ハワイと言えばフラダンスみたいな記号性が、
いちばん伝えやすいものだし、それはそれでウソじゃない。
(ほぼ日刊イトイ新聞)

これに対して、ボクはすごく賛成する。

でも、一つ気にかかることもある。

「それはそれでウソじゃない」

ウソでは無いけど、100%の真実でもない。

誰しもがある事柄について豊富な知識のバックグラウンドを持っているわけではないから、何かを説明しようとするとき、「たとえ」というある種の記号を使うことは必然でもあるし、必要でもある。

アメリカに来ている留学生が、日本について何か聞かれたとき、その返事が自分の知っている、そして感じていた日本とは違っていて若干の違和感を感じていたとしても、それに対する答えは、記号性を持ったステレオタイプに近いものになってしまうと思う。

なぜなら、それを説明するのに十分なだけの知識を相手に要求することは、ほぼ不可能と言っても良いから。もちろん、韓国とか台湾とか比較的日本と似たようなバックグラウンドを共有しているヒト達には、もうちょっと事実に近いことを話せるが。

ボク自身、自分の考えを伝えるときに、好んで「たとえ話」を多用する。自分の言葉を使って100%説明するよりも、「たとえ」を使って相手のイマジネーションを刺激しながらの方が効率的だと思うから。

でも、そこに落とし穴が潜んでいる。分かりやすさを追及すれば、極めて単純な記号を使うことがベストな方法だと思うけど、それは同時に自分の真意からの乖離も意味している。だからと言って、たとえを排除して自分の真意を100%伝えた「つもり」になっていたとしても、相手が理解していなければ、なんの意味もない。

ボクはこれからも「たとえ」を使っていくと思うけど、分かりやすさと自分の意見を100%伝えることのバランスが一番の課題だ。

たとえば、好きな女の子にいきなり目を見つめて抱きつくのと、自分がその子に対して思っていることを全てリストアップして、提出するのコトとのせめぎ合いみたいなもんである。

ん?全然「たとえ」が分かりにくい?

今、寝る前で頭が回転していないっていうのはタダの言い訳で、もっと魂をえぐり取るような「たとえ」を思いつけるように修業します。


2000/05/04(Thr)
電話を切る時や、立ち話をしてた時の、切り際、去り際っていうのはどうやって決まっているんだろう???

お互いの中で何となく、「じゃあこの辺で」っていう暗黙の合意が形成されているはずだと思うんだけど、その暗黙の合意を決定する要因っていうのは何なんだろう?

たとえば、電話とかでも、もう用事がないはずなのに、「じゃあ...」という言葉がどちらからも発せられないがために、妙な雰囲気のままダラダラと、切りたいにも関わらず続いてしまうことってあると思う。そんなに、「じゃあ、オレもう話すことないから」と言って切れる人は、普通、なかなかいないと思う。

もし、このメカニズムが解明されたあかつきには、すっごく有効だと思う。だって、自分が全くその気のないヒトからの長電話に苦しめられている女の子(もちろん男も含む)はたくさん居るだろうし、誰にでも「コイツとはあんまり話したくないなぁ」っていうヒトが居ると思う。

そう考えると、ちょっと興味深い。

でも、それを解明して発表した途端、自分が友達だと思ってた奴や、いいなぁって思ってる女の子からそれを言われたら、まじショックだけど。


2000/05/03(Wed) 激ヤセ+激勘違い
なんだか、気付かないうちに痩せてきてしまっているみたい。

先セメの終わりには、ringをはめている指が細くなったのではないかと思った。実際、すぽすぽになってたし。でも、今セメはどうやら手首らしい。気付いたら、時計がすぽすぽ。いつもと違う穴に入れていたってコトは有り得ない。なぜならば、24時間いっつも腕時計したままだから。そうじゃないと、寝過ごす可能性大だし。

いっつも朝のベットの中で繰り広げられている戦いは、二度寝の欲望と、クラスに行かなければならない義務。そして、ふと腕にはめている時計を見て、その戦いにケリがつく。

毎日の行動は大体がパターン化してきてしまうもので、慣れてしまえばどうってコト無い。それは、Starbucksでコーヒーを頼むときも一緒。でも、予想外の対応がくると、ドキドキしてしまう。

今日一番というか、ここ何ヶ月かで一番の勘違い、聞き間違いはとっても恥ずかしかった。

いつも通り、"Can I have a grande americano?"と言ったら、"hot or cold?"と聞かれた。いつもなら、"Sure! Anything else?"って言われるのに。でもボクの頭の中では、"hard or quoter?"ってフレーズがぐるぐる回っていた。

何じゃそりゃ?hard americano??? quarter???

で、ボクは、ゴニョゴニョっと"hard..."って言ってみた。っていうのも、americanoはespresso+お湯で、ときたまextra shotを入れてくれるから、hardは濃いのかと思ったから...だって、濃いコーヒー大好きなんだもん。

で〜も、言った0.1秒後に気付きましたよ、"hot or cold?"って聞かれたんだって。

あ〜ぁ、恥ずかしいったらありゃしない。毎日の生活は気が抜けない?


2000/05/02(Tue) カベについての考察
珍しく、ミスチルの歌を聴いて、イイと思った歌がある。それは、「終わりなき旅」。

ちょうど、みんなと違う道を歩きだした時に聞いたから、何だか励まされたような気がした。たぶん、同じようなコトを感じてたヒトはいっぱい居たのかもしれないけど、「これはオレのための歌だ」って何故か思った。

その中に、高ければ高いカベの方が登ったときに気持ちいい、みたいなフレーズがあった。その時は、確かにその通りだと思った。実際、自分ではるかに高いカベを登ろうっていう気持ちを持っていたときだった。

でも、今の気持ちはちょっと違う。はるかに高いカベは遠くに見えているから、自分のやる気を鼓舞するけど、目前に迫った高いカベは、ボクをゲンナリさせる。finalが9日に二つある。しかも、両方とも範囲は膨大。覚えること山の如し。確かに、準備する時間は一週間以上ある。10日にあるテストの準備はそれほど手がかからないだろうから、放っておくとしても、あの量を覚えられるのか???

ボクの脳みそのポテンシャルはどこまであるんだろう?テスト問題が難しいとか、成績がどうとかそういう問題じゃなくて、今回はボク自身の記憶力との勝負になりそう。

そういう意味で切羽詰まってる。切羽詰まってる。

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この間提出したe-commerceに関してのpaperをCreate Adobe PDF Onlineを使ってPDF fileにしてみた。

読みたいヒトがいるとは思えないけど、一応ココに置いてある。

確かに、このPDF fileに変換してくれるサービスはありがたいけど、せっかくヒトが気合い入れて作ったdiagramを汚く変換したのは、かなり気にくわない。



2000/05/01(Mon) アメリカンスタイル
こっちに来て、一番変わったこと。

部屋の中ではなるべく薄着で居たいってコトかな。こっちに来る前に、dormではみんな冬でも半袖&短パンで過ごしているよ、って話を聞いてたけど、本当に暖かくて(むしろ暑い)ボクも冬の間そうしてた。でも、これが結構快適で、なんというか、体が軽い。だから、ヒーターをつけなくなっても、結構薄着で部屋にいることが多い。

でも、どうやらこれは端から見ると、ちょっと変なのかもしれない。だって、突然遊びに来た友達が、「どうしたの?少年みたいなカッコして」だって。

確かに、ちょっと肌寒かったけど、いいじゃん。

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