偶々に靖国大社の右手にガダルカナ島会45回慰霊祭をやっていた。
あの無謀な戦争でガダルカナ島は餓島ともよばれ、東部ソロモン海戦に大敗をした日本軍は、制空権、制海権を奪われて伸びきった
補給線が絶たれた。夜陰にまぎれて僅かな食料を島に運ぶ潜水艦は○通(日本通運の略称)ともよばれた。それも途絶えて
食料がなくなった兵士達は飢えとマラリヤに苦しんだ。
この島に上陸した日本軍は31、400名中、死者21,000名そのうち5、000〜6,000名が純戦死者で、餓死又は栄養失調による病死者が
約15、000名と想像を絶する悲惨の毎日のなかで異郷に身を没した。その他ガ島での航空機などの搭乗員の戦死2,362名。
川口支隊小尾靖夫少尉の陣中日記によると「1943年1月1日生き残りの将兵全員に最後の食料が分配された。乾パン2粒コンペイ糖1粒だけ。
全将兵、北方を望み祖国の空を仰ぎながら拝んで食べた。アウステン山の守兵は草木のように動かない。屍体で足の踏み場もない。
生きているものと、それから腐ったものと、白骨になったものとが枕を並べて動かないのだ(1943年1月3日)。」
ガダルカナ島はまさにこの世の地獄であった。
1943年1/22から2/7の間3回にわたりやっとの思いで20隻の駆逐艦で退却できた。アメリカ軍は新たな増援部隊と勘違いして攻めてこなかった
ので幸運な10,652名が退却できた。
この慰霊祭はその中の生き残り兵士達の集まりであろうかと思った。生還者がどのような想いで慰霊祭をしておるのか大変気になった。
現今、日本中は食料が氾濫し ガ島のみならず南方方面のこのような不幸な歴史は忘れ去れようとしている。未だ日本兵の遺骨収集も残っている。
今の我々に『餓える』がどのようなものかを実感する術もない。何故このような戦争をしたのか、反省に立って日本の国を守らねばならない。
私の英語教師松本先生もガ島の隣のニューギニアで戦死。
BGMは より