2001.11.11




「20歳の祐子へ」



昨日迄の冷たい雨が上がって、今日は秋晴れの本当に爽やかな日曜日です。「雨女」の君には似つかわしくないような快晴、20歳の門出を祝うには絶好の日よりです。

お誕生日おめでとう。

17歳になった君の妹、知子の通う高校は、今日11月11日が開校記念日、彼女の中学も確か11月11日は開校記念日で休校だったと思います。不思議な因縁を感じてしまいますが、知子の高校では「文化祭」が開かれており、ソフトボール部が出店しているフランクフルトと味噌おでんの販売に早くから出かけて行きました。ママもPTA役員をやっており、同様に出店しているバザーのお手伝いのため先程出かけて行きました。二人とも忙しく、元気に過ごしていますよ。

パパは「いつの日かそちらの世界で君と再び巡り会うまで、君に笑われないよう、不器用ながらもしばらくこの世界であがいてみようと思う。」とずっと前に宣言した通りですが、「君に笑われないよう」に生きていくのはなかなか難しいもんだ、と改めて感じているこの頃です。

君が逝ってしまって、まもなく6年の歳月が流れようとしています。最近そちらでの調子はどうですか?君のことだからそっちの世界でもきっと仲間達の中心になって、明るく楽しくすごしていることだろう、とパパは想像していますし、何の心配もしていません。君の賑やかで、はしゃいだ声が時おり耳に届いています。

聞くところによると、君はもう次にこの世に戻ってくる為の準備に入っているそうですね。輪廻転生が本当だとすれば、パパがそちらの世界に行く頃には、祐子はこちらの世界で別の人生を歩んでいるのかも知れません。そうだったら、「君と再び巡り会う」のは、ズッーとズッーと先になるのかな、等と余計な心配をしてしまいます。


君の20歳の誕生日に、何のお祝いもしてあげられない無念さを噛みしめながらも、今日はゆっくり君と向かい合って、君の短くも強烈な人生を振り返ってみたいと思います。君は、長く病床に伏していた時、パパがベットの横で君の幼かった頃の話をするのをとても喜んで聞いてくれた。お転婆でどうしようもなかった事、パパの不注意でお風呂場のドアに指を挟んでしまった事、保育園で大泣きした事、どれもこれも何度も繰り返し
話したことばかりだったけれど、飽きもせずいつも嬉しそうな顔で聞いていたよね。そして、なぜかとても得意そうな顔をしていた。

1981年11月11日、「1」の続く20年前の今日、パパは広島の会社にいて、君のお祖母ちゃんから一本の電話を頂きました。
「女の子ですよ。」

男ばかりの兄弟や従兄弟に囲まれて育ったパパは、家族に「女の子」のイメージは全く無くてちょっと戸惑った事を覚えています。それより何より「母子ともに健康ですよ。」という言葉に心からほっとしました。それまで特に心配するようなこともなかったのですが、いざとなるとこの言葉が一番嬉しかったです。

ママのお腹の中でも元気が良くて、バタバタと暴れていた君。2、3日後の週末、東京に戻ってママの病室で初めての対面、君の事は「黄色いサル」のようにパパには映っています。ギャーギャーと小さい体を震わせて何かを主張する姿がとても印象的でした。まだまだ「女の子」というイメージはなくて、2年半後、妹の知子が生まれる迄は、パパの気持ちの中では「男の子」って感じで育てていたような気がします。

年が明けて1月、君とママが広島に来て3人での生活が始まりました。「抱き癖」というのでしょうか、人の胸の中でスヤスヤと気持ちよさそうにしている君を、ソォーとベットに寝かせると、たちまち大きな目を開けて、キッとパパの顔を睨んで、そして一気に「ギャー」と泣くのです。まだまだ寒い冬の夜中、明け方、パパもママも何度もこの繰り返しに辟易させられました。

8ヶ月でパパに「いってらっちゃい」と言った事、10ヶ月頃にはヨチヨチ歩き始めた事、これらはホームページの「祐子のあしあと」に記載していますが、確かに成長は早かったようです。特に喋る事は、その後も君の得意技の一つです。

満一歳の誕生日は、再び転勤で戻ってきた東京で迎えましたが、ママの手作りケーキと木琴がプレゼントでした。後々、パパには不得意なピアノ・クラリネット・フルート・エレクトーンなどを器用に操った君、楽器との最初の出会いがこの木琴だった訳ですね。

一歳から二歳にかけては、我家は君の独壇場だったと思います。一歳を過ぎたお正月、パパの実家の岡山で過ごした時も君のお転婆振りは話題になりました。こたつのテーブルに駆け上っては飛び降りることの繰り返し、宝田家にとって50年振りの女の子、と君の誕生を人一倍喜んだお祖母ちゃんを完全に呆れさせてしまいました。他にも家の中や近くの公園で活躍する君の見事なお転婆姿の写真がいっぱい手元に残っています。

二歳の誕生日の頃から少し環境が変わってきます。ママのお腹の中に次の赤ちゃんの気配が感じられるようになります。年末、お正月にかけて高熱を出して心配させられた、のもこの頃です。幸い3、4日で快復しましたが、幼い体でぐったりした様子に、当時はまだまだ新米だったパパが、オロオロさせられた最初の体験です。

祐子が二歳半の5月、待望の妹が生まれました。ママが出産のため数日間の入院中の事、その後君がパパに何度も「文句」をいう出来事が起こりました。パパと君との二人だけでの初めての生活、昼間は近所のお祖母ちゃんにお世話になっていましたが、パパが会社から戻って一緒にお風呂に入った時です。開閉式のドアに君の親指を挟んでしまい、大泣きをさせてしまったことです。怪我の具合は大事には至らず幸いでしたが、母親と初めて別れて暮らす寂しさがあったのでしょう、何時までもこの事を君は忘れないで、「パパの不祥事」として、記憶に残ったようです。その後、何度君から責められたことか、君にとっては余程大きな出来事として刻み込まれていたのでしょう。

知子が生まれ、君は「ゆうこちゃん」からすっかり「おねえちゃん」になって、すくすくと成長していきます。満三歳の誕生日は、大好きなエビフライをほおばっています。知子もパパの膝の上に抱かれ、満面の笑みです。誕生日とあい前後して七五三のお祝いもありました。近くの写真館で記念撮影した晴れ着姿は、暫くの間、そこの写真館の入り口に「見本」として飾られていました。目元がパッチリとし、おすましした姿は、内緒ですが、パパの数少ない大事な自慢の一つなのです。

次の春、君は近所の「ばとうばし幼稚園」に進むことになります。我家で独裁者として振舞ってきた君が「社会」に踏み出した第一歩です。入園試験の当日、皆と一緒に教室に残されて母親の顔が見えなくなった瞬間、「ワッー!」と大声で泣き叫んだ、とママから聞かされました。「ゆうこ、が・・・・?」とパパも意外な印象でしたが、その後も君はこのことを否定も肯定もしなかったと思います。この頃から、君はピアノのレッスンに通い始めたのですよね。

4歳から5歳にかけては、ばとうばし幼稚園で過ごします。年少組から年中組へ進級し楽しい遠足や運動会も経験します。なぜかアルバムに残っている遠足風景は、雨模様。「雨おんな」の由来でしょうか。

5歳の誕生日の直前に、パパは転勤で一足先にバンコクに行っていました。翌年の1月に君達が来るまで3ヶ月程の単身赴任です。この間にパパは直接知らないのですが、君はヤマハのピアノコンサートに最年少で出場していますね。でっかいピアノの前にちょこんと座って演奏している写真が残っています。
忘れられないのは、バンコクのパパに送ってくれたカセットテープです。ママや君や知子の声が録音されています。大切にとってあったので、今日久し振りに取り出して再生してみました。「今日歯医者に行ってきました・・・・・」という君の幼い声、知子の「セェンセェイ…???」という不明な幼児語、とても懐かしい当時の記録です。それにしても君の雄弁さには改めて感心します。

そして、「1から10までタイ語でいいます。ヌン・ソン・・・・・。サワディ」と。「パパは何をしていますか?1月に行きますから元気にしていて下さい。」などなど。おまけに大声での歌「ポケットの中には…♪♪…」。後ろには知子の奇声、ママのてこずっている様子まで手にとるようにわかる貴重なテープです。最後にはママの「祐子、いい加減にしなさい!」の罵声で終了しています。もう滅茶苦茶です。

5歳と2ヶ月で舞台は、タイ・バンコクに移りました。常夏の暑い地、住んでいるアパートにも立派なプール施設があって、年中自由に泳げます。このアパートに決めたのも君が「階段のあるお部屋がいい。」という電話での一言がきっかけとなりました。メゾネット式のこの家での生活は、それから帰国するまで数々の思い出を詰め込んで5年4ヶ月を数えることになります。

4月にはバンコク日本人学校の幼稚園に入園しました。普段の休日はゴルフばっかりのパパも、夏休みやお正月の休日には家族で色んな所で出かけました。プーケットやパタヤ、サムイ島など、でも何処にいっても水着姿。写真もいっぱいありますが、どこだかなかなか区別がつきません。

満6歳(幼稚園)の誕生日は、自宅のタイピンタワーで、あかねちゃんとの共同誕生日会となりました。ママの手作りの「おすし」とメイドのウライさんの料理に囲まれています。タイの生活にも慣れた頃です。

暑い国での最初のお正月はパパの会社のNさん家族と一緒にパタヤビーチで過ごしました。翌年(89年)はライヨンビーチ、90年はサムイ島、91年はシンガポール、そして92年は豪州旅行、と帰国するまで毎正月の家族旅行は続きます。後に病院のベットの上で、「退院したらまた家族で旅行しようね。」と何度も何度も言っていた君の言葉が思い起こされます。もう二度とは一緒に行けない旅行ですが、君の中でもきっといい思い出として残っていたんだろうな、とパパは自らを慰めています。

泰日協会、日本人学校小学校に進級した君は、水筒とお弁当とを持って、毎日スクールバスでの往復、思えば単調な生活の繰り返しです。自宅に戻れば同じアパートの友達とプールで遊ぶのが日課です。それでも暑い国のクリスマス会や餅つき大会、花火大会等々、学校や日本人会の主催する色んな行事を楽しみました。タイにきて初めて体験するハロウィーンでは女神さまや魔法使いに変装したり、タイ固有の行事、ロイカトーンではタイの民族衣装も装いました。

なかでも4年生に進級してからブラスバンド部に入部したのが思い出深いですね。日本人学校は小学校・中学校が併設されており、クラブ活動も一体となっています。小学生は4年生になると好きなクラブに入部して、中学生のお兄さんやお姉さんの指導を受けられます。君は自らブラスバンドを選び、クラリネットを担当しました。日本人会の文化祭コンサートや運動会のパレードで、中学生に混じって活躍する君の勇姿がパパには何より眩しく見えました。

君は水泳も得意でした。毎日泳いでいたのだから、当然かもしれませんが、スピードには自信をもっていたようです。何度かパパにも挑戦してきました。自己流のクロールだったため、持久力には難がありましたが、小学生の君を向こうに回して、パパも手を抜くことができませんでした。その後帰国してからも水泳は君の得意技の一つとなりました。学校代表の選手となり地区大会で活躍したことを自慢げに話してくれました。豊田の伯父さんとの対戦を二人とも楽しみにしていたのにね。

君が大好きだったのは、日本人学校の4年生のクラスだと思います。K先生やお友達の団結力、まとまりが好きだったと何度か話してくれました。君が病気で伏している間はK先生にもお伝えできなかったのですが、その後訃報を受取った先生から、パパ・ママ宛に丁寧なお手紙を頂戴しています。その中から一部を君に捧げます。


「タイピンタワーの近くの溝からグッピーを(六匹だったかな)捕って学校に持って来てくれた時の事、『キョウリュウをさぐる』という単元を学習した時の発展学習で、ダンボールのキョウリュウを作った時のあのうれしそうな顔、そして絵本完成記念パーティーの時みんな一人ずつキョウリュウから顔を出しピースしながら写真に写ったのですが、その時の祐子ちゃんの顔はなぜかよく覚えているのです。
その他、特技の絵を生かして産み出したオリジナルキャラクターの『かい』の事。文集や係の新聞等によく登場しました。『かい』の喜び、悲しみ、悩み・・・・それらすべてが彼女そのものでした。研究集録『やさしさあふれるタイ』の表紙も彼女のものでしたね。
そういえば、クラリネットを教則本で学びあったこともよく覚えています。ふり返れば、いつも笑顔で前向きにしかもマイペースの自然体。こんな彼女に励まされたことが何度もありました。そして教えられた事もたくさんありました。・・・・」


小学生の高学年にもなると、パパの知らない事がいっぱいあった、と思います。でも君の話からも昨今問題になっているような「学級崩壊」などという現象は、少なくともこのバンコク日本人学校には微塵もなく、それは先生からのお手紙でも裏付けられていると思います。


この時代の君のお友達、Nちゃんがこの夏訪ねて来てくれました。すっかり大人になって、でも小学生の頃の面影も少し残して、10年振りの再会でした。今は遠く家元を離れ、長崎の看護大学に学んでいます。君が残した『かい』?か何かの創作まんがノートを持ってきてくれました。大事にしまっておいてくれたのだと思います。我家に返してくれようとしていたのかもしれませんが、引き続きNちゃんに持っていて、とお願いしておきました。彼女が看護の道を選んだのも少なからず君の影響があったからだそうです。立派な看護婦さんになれるよう、そちらからも応援してあげて欲しい。


タイでの生活は、92年、君が5年生に進級するまで続きます。92年のお正月は思い出深い豪州旅行です。メルボルン、ペンギンパレード、地球の臍、エアーズロックへの登頂。シドニーのオペラハウスは昨年のオリンピックで何度も登場し、あの時のことを繰り返し思い出させてくれました。羊の毛刈り、コアラを抱っこしたこと、シドニータワーの展望レストランでチョコレートパフェを頬張るワンショットが、ホームページ・「Yuko’s Room」の表紙を飾っています。


5年生に進級した5月、久し振りの日本での生活が始まります。真っ黒に日焼けした帰国子女の君を級友達はタイ人と間違えて「日本語がうまいじゃないか。」と迎えてくれたそうです。タイ流の生活に慣れていた君には当初戸惑うことも多かったでしょう。


帰国早々、近くの区立スポーツセンターのプールで出かけたとき、バンコクのプールで自由奔放に泳ぎまくっていた君と知子は、いきなりプールサイドから大人用プールに飛び込んで、監視員から大目玉を食らってしまいました。足が底に届かない知子は、子ども用のプールに追い立てられてしまいました。物心つく前から自然に泳いで育った本人は、どうしてなのか不思議に思ったことでしょう。君もラインに沿って順番に泳ぐ窮屈なスタイルには馴染めなかったと思います。



我々両親も日本流が解らぬまま、君には中学受験の道を勧め、近所の塾に通わせました。自由奔放に泳ぐことの大切さに気付かず、十分に思慮した上での選択ではなかった点で君には謝らなければならない、と思っています。6年生になって、君が挫折しかかった時、パパが叱責した事を覚えていますか。負けず嫌いの君がパパの前で、珍しく泣いた時の事です。「もう止めてしまえ。」というパパに、結局君は「まだ頑張る。」と嗚咽しながらも立ち向かってくれました。パパも君と真剣に対峙した場面であり、今でも忘れられません。中途半端に物事を投げ出して欲しくない、という思いからの叱責ですが、一方で親として安易に「受験」などを勧めた事を後悔した瞬間でもありました。


受験本番の時には、既に病気の進行があり、それどころではない状態でしたが、君は痛み止めの薬を飲みながら果敢に挑戦し、合格の栄光を掴む事になります。それからの事は前に「長女、祐子へ」に記載した通りです。


最近、三輪田の卒業生や君の後輩にあたる在校生からメールを頂く事があります。ホームページを検索して偶然出合ったり、これを見た友人から口コミで知らされた、というものです。メールを送ってくれる人は一部の方々でしょうから、まだまだ多くの人が君の「あしあと」に触れているのだと思います。


テレビドラマでは、君の大好きだった「金八先生」が小児がんを真っ向から取り上げています。なんと金八先生の息子、幸作が悪性リンパ腫で倒れてしまいます。

金八先生は、君が逝ってしまうまさに前日の夜、ベットを起こして一緒に見たドラマですよね。中学3年生と担任の教師を巡る人気番組で、当時中学2年生だった君には、身近な話題も多く人一倍興味深く楽しみにしていました。あの日は、ドラマで嫌いな先生の言動をとらえて「ああいう先生が本当にいるんだよ。」とボソッと辛辣に呟いたのを覚えています。

今、息子の幸作は無菌室で孤独に闘っています。武田鉄也扮する金八先生は、幸作を必死に励ます親を熱演しています。君が病魔に襲われた時、パパはまるでドラマの世界か、と錯覚した記憶がありますが、このドラマは現実の裏返しです。ドラマをドラマとして捉えられず、現実と重なって見えてしまいます。金八先生のセリフもとても他人事には思えません。


今日も見ず知らずの方からメールを頂戴しました。

『ゆうちゃん』でいいのかな?二十歳の誕生日おめでとうございます。
彼女の不思議な魅力に惹きつけられメールすることにしました。

僕は今22歳の男性です。
去年の8月21歳になったばかりの夏、病気にかかり今年の5月に退院することができました。
手術、化学治療、そして8時間の手術、超大量化学治療、そして無菌室に入り、自家幹細胞移植、つらい治療が続きました。
ちょうど今ごろの時期がとても記憶に残っています。一番つらい時期でした。一ヶ月に一回は外泊できたのですがクリスマスの時期とも重なり、楽しいそうに過ごす人達が羨ましい。いや憎いという表現のほうが正しいかもしれません。
そんな感情を抱いたりもしました。でもそんな辛い時期を乗り越えて僕は今生きることができてます。

将来医学の道に進もうと思い、今医学部受験のため勉強しています。少し時期が遅かったような気もしますが・・・・・
できるだけの努力をしようと思っています。そして医学部に進むことができれば小児科医になりたいと思っています。

なんだか勇気もらっちゃいました。ありがとうございます。
お父さんからゆうちゃんへのメッセージがとても伝わってきました。彼女の強さ。それは彼女を愛してるご家族の強さからくるものだと僕は思います。患者もつらいけど家族のつらさも最近分かるようになってきました。
ゆうちゃんもご家族のみなさんに感謝していると思います。

ちょうど、ゆうちゃんのHPにたどり着いた時期が今日11月11日。そして彼女の二十歳の誕生日。この偶然にメールを送りたくなりました。
これから寒くなりますがご家族のみなさんお体に気をつけてください。

最後に・・・・・
二十歳になったから『祐子さん』がいいのかな?
祐子さん誕生日おめでとう。今日がいい一日になるといいです。
それでは失礼します。



まだまだ病室には、君と同じような辛い思いをしている子とも達がいっぱいいます。君の病気を通じてパパは自分の無力さを痛感させられました。同時に色んな人の優しさや励ましに助けられました。「生きる」という事の意味も考えさせられました。考えても何の結論もでないのですが、君の生涯が14年で終わったとは決して思ってはいません。

こうして丸6年を過ぎようとしている今も、君は確実に存在していて、20歳の輝きをパパに示してくれています。君のことをホームページで知った数多くの方々が、勇気や感謝の思いを伝えてくれます。ママは相変わらず「がんの子供を守る会」のボランティアに精を出しています。みんな、君の強烈な人生に強く影響されて生かされているのだと思います。


来月は君の7回忌です。岡山のお祖父ちゃん、お祖母ちゃんも20歳に成長した祐子に会いに来てくれます。君を可愛がってくれた佐久間のお祖父ちゃん、内宮の叔父さんは、もう祐子の所で一緒に過ごしているのでしょう。

もうすぐママと知子が帰ってきます。今日は君の20歳の誕生日。

祝杯をあげましょう。君の好みはビールか、ワインか、それとも日本酒だろうか。

「祐子さん」、今宵はゆっくりパパのお相手をお願いしますよ。

 

君のお喋りが何より大好きなパパより



BGM by 月夜のピアノ


祐子のプロフィール

祐子のあしあと

スケッチブック

パパから祐子へ

Sさん(看護婦)から祐子へ

伯父さんから祐子へ