「伯父さんから祐子へ」


二十歳の誕生日おめでとう。久しぶりだね。元気でやってる?

祐子と別れてからもう6年も経つんだね。これは単なる伯父さんの想像だけど、二十歳の祐子とは、下記のような娘だろう、と思うけど当たっているかな?

きっと背は、伯父さんより少し高い所まで伸びて、やや細身で結構スタイルは、いけるんじゃあないか。顔は幼い頃の彫りの深さが更に進み、色白とは言えないが(失礼)なかなかの美人のはず。ちょっと誉め過ぎかな。もしこっちの世界に住んでいれば、元気で活発な学生生活を送っているに違いない。

多分、都内の大学に家から通っていて、水泳部か他のスポーツ系のサークルかクラブに入って、ボーイフレンドも何人か、いや彼氏もできているかな?一方、長女だしおませな所はそのままだろうからなかなか生意気なお嬢さん、という感じでお父さんやお母さんと結構ぶつかったり、楽しみも多いが、悩みも多い正に青春真っ只中でしょう。


祐子は二十歳になったとはいっても、勝手にこちらで二十歳の姿を想像するだけで、伯父さんにとってやはり、目に浮かぶのは今でも14歳の祐子です。最近は東京出張が少なく、また行った時も時間が少なく、お墓に寄れる機会が少なくなって申し訳なく思っています。


ちょっと昔話をしようか。祐子が病気になる前には、色々楽しい思い出があったね…。

伯父ちゃんの家族と一緒に行った岡山の池田動物園の「お化け屋敷」、本当に面白かったね。小さい頃からのお盆や正月は時々会っていたので、いろんな楽しい思い出が一杯あるんだけど、やはり伯父さんの脳裏に鮮明に残っているのは、残念だけど祐子が病気になって別れるまでの2年間の思い出です。


祐子はスポーツが万能だったので、いつか祐子とお父さん・お母さんと未だ未だ足に自信のあった伯父さん、そして晋ちゃんを入れて、岡山で一度かけっこ(東京では「徒競争」?)をやろうと、思っていた。それを提案したのがあの年の正月休みで、祐子はもう足にサポーターを巻いて、残念そうに「今、ちょっと・・・」と言ったのは、今でもはっきり覚えているし、何かその時の表情や様子、症状に、気になる不安を感じました。その数日後、祐子から豊田に電話があり、その後電話を代わったお父さんの言った病名には、絶句しました。


余りのショックに、すぐその晩に伯父さんの大学時代に親しかった慶応医学部卒の先輩(外科医)に電話して、その病気は治る可能性があるものかを祈る気持ちで聞いてみました。その先輩が言うに「残念だけど、今の医療技術では治癒率は極めて少ない。本人(祐子)のサポートは、両親に任せるしかない。君は、一番つらい立場の弟さん(お父さん)をしっかりサポートしてやりなさい。」と断言され、更に愕然としました。今考えて見ると冷たい回答だったけど、極めて正確且つ適切な「一言」だったと思います。その後2年間、祐子の事は頭から離れず、東京に行く度に見舞いには行ったけど、先輩のアドバイス通りお父さんを十分サポート出来たかどうかは、余り確信が持てません。


ただその時は、先輩のアドバイスをすぐ実行しようと、お父さんに励ましの手紙を書いたことを憶えています。3〜4日かけてなんとか気持ちをしっかり持ってもらおうと考えながら書いたので数日間、首が回らない程の筋肉痛になったことを憶えています。


その直後の休日には、図書館で病気の事を知るために医学書を読み漁りました(祐子は知らないと思うけど、今はインターネットという無茶苦茶便利なものがあり、あの時それがあったらもっと活用でき、色々と便利だった、と思う)が、希望の持てる情報はないままでした。


その後、こんな状況にもかかわらずお父さんもお母さんも、(少なくとも表面的には)しっかりしている様子だったので少し、ホッとしたものです。

お父さんに案内されて初めて病院に行った時、小児病棟に入院している小さな子供やその親が気の毒でならない、と言った事を憶えています。伯父さんは、祐子やお父さんがその立場になっているのに、よくそんなに他人の立場の事が考えられる余裕があるなあ、と感心しました。

その後何度か見舞いに行ったり、祐子に手紙を書いたり返事をもらったりしたよね。全ては憶えてないけど、いくつかは今でも印象に残っています。

厳しい病気で、治療が想像を絶するつらいものであるはずだが、伯父さんが行ったときは、いつも祐子は笑顔で迎えてくれて、小一時間楽しく話してくれた。でも、それはやはり2〜3ヶ月に一度、しかも短時間の「御見舞いに来てくれた人」に対する大人になった祐子の気遣いだった事を知ったのは、2年目の5月か6月に、お父さん・お母さん・知子の3人で訪問した時でした。伯父さんは前日も確か見舞いに行って、二日目の見舞いだったと思う。調子も悪くなりかけていた時期だったが、お母さんに病状を訴える祐子の苦痛の表情が前日の伯父さんだけ見舞いに来た時と全く違う様子をみて、ああ、厳しいけどこれが事実で、親と伯父ではこんなにも距離があるんだ、と思いました。

考えて見れば当たり前だよね。お母さんは、片道1時間かけて一日も欠かさず、祐子のことしか頭にない、そんな2年間。こちらはたまに「どうだ大丈夫か」と見舞うだけであり、見舞いによく行ったと言って、たいした事をしていると思い上がったらとんでもない間違いだと。親の努力・精力・苦悩とは100倍以上重みが違う。


こんな事も思い出します。祐子は同室の子供の性格や看護婦さんの特徴や性格を鋭く見抜いていて伯父さんが行くたびに、面白おかしく教えてくれたよね。そんな観察や推察が出来、また他人への気遣いが出来るように成長したのは、厳しい病気と戦い、その結果祐子が成長したから、と伯父さんは本心そう思ったから、ある時ついそんな意味の事を言って祐子を誉めてやったよね。その時の「そう、病気になったからこそ勉強になった事が多い。これで治ればいいんだけど…」と少しさびしそうに且つ不安そうな言葉と表情、いまでもはっきり憶えているよ。余計な事をいったのではと、後悔したものでした。

また、祐子が入院中、一番楽しみにしていたのは間違いなく「一時帰宅」だったよね。これもある時見舞いに行った時に聞いてビックリした話。

「はじめの頃は、病院から自宅に帰る時は嬉しくてしかたなかったが、最近は、帰宅前は確かに楽しみだが、それは2〜3日前までで、帰宅当日は、その後の病院に帰る日が近くなった、と感じて気分が重くなるため車に酔うんだよ」

こんな事を祐子が言っていたよ、とお父さんに話したらお父さんも知らなかった。前述とは逆に、両親に話す事と、伯父さんに話す事を、祐子はちゃんと区別していたんだね。伯父さんもこの前入院して初めてあの時の祐子の言葉の重みが理解できました。

ひとつだけ、後でいくら悔やんでも取り返しのつかぬ伯父さんの判断の失敗があり、祐子に今からでもお詫びを言わなければならない事があります。

もしもの時のため、絵美ちゃんには夏に伯父ちゃんの出張に併せて、自宅療養中の祐子に見舞いに行かせました。晋ちゃんにも伯父ちゃんの出張に併せ12月に大学の下見、と理由をつけて上京を薦めたものの本当の目的は祐子に一度は会わせてやろう、という伯父さんの目論見でした(だってまだ高校1年だったのだから…)

晋ちゃんも薄々、伯父ちゃんの意図には気付いていたようでした。ただ、その前日(金曜日)自宅に伯父ちゃんだけが見舞いに言った時、祐子は既に酸素マスクをつけ、それに加えお父さんが連日の看病と気疲れで風邪を引き大変苦しそうだった。それがどうも気になって、土曜日に晋ちゃんと大学訪問した後、少し時間もあって、どうしようかと迷ったが、結局、秋葉原で時間をつぶしてそのまま新幹線で帰ってしまった。 

秋葉原に行く前に、様子・意向を聞くために「一本、電話」しておけば・…、とずっと後悔し続けています。

祐子、本当にごめんなさい。その丁度1週間後に、別れになるとは、ちょっと予想外、というか伯父ちゃんの見通しが甘かった。その時、祐子と別れる時の伯父ちゃんの言葉は「祐子、じゃあ又来るからな」、だった。この時、半分は本気で、半分はもしかしたらこれが最期だったと思っていたにも拘わらず・・・。

その時、祐子は首だけ横に向け、笑顔でうなずいてくれたよね。それがお別れの合図だったんだね。

思い出話を書いていると、どうしても祐子にとってはつらかった事や苦しかった事ばかりを思い出させる事になり、ごめんね。


随分長い手紙になってしまったけど、また次回、今度はもっともっと明るく楽しい出来事や思い出話を書くから今回はこれにてご了解ください。では、またね。


                        伯父ちゃんより


                      平成13年12月15日



祐子のプロフィール

祐子のあしあと

スケッチブック

パパから祐子へ

Sさん(看護婦)から祐子へ

20歳の祐子へ