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長女、祐子へ


君の一周忌を間近に控えたある日、ママが君の夢を見た、と
嬉しそうに話してくれた。
話もしたし、体にも触れたそうだ。
体は冷たかったけれど、話の内容は、
「どうして病気の事をはっきり教えてくれなかったの、もうわかっていたのに。」と、
君がいつもの調子で、冗談っぽくママに文句を言って、
そしてその後、悪戯っぽく楽しそうに笑った、という。


君が、小学校6年生の冬休みに「悪性骨肉腫」という悪夢の診断を受けて入院し、
卒業式も中学校の入学式も出席できないまま、
それでも必死の思いで病魔と闘った約2年間の日々。
「告知」という問題は、常に頭の中にはあったものの、
結局ちゃんとした形では何も出来ず、最後の最後まで騙し続けてしまった。


君が、中学入試を目前に控えた初冬、
右脚大腿部に不調を訴えた時、パパもママも、そして君自身も、
軽い筋肉痛だろう、とくらいに考えて近所の整骨院に通わせた。
それでも一向に回復の兆しが見えないどころか、症状は益々ひどくなり、
年明け早々に大学病院で検査を受けた。
検査の結果の出る前には、痛み止めの薬を飲みながら三輪田学園の入試に挑戦。
三日後、病院に立ち寄り「最悪」の診断結果を知らされ、
動転の中入院の手続きを終えたその足で「三輪田」の合格発表に向かった。
見事「合格」の朗報は、単に一中学の入試に成功した、という喜びだけでは無く、
何より君の運の強さ、これからの難病との闘いにも絶対に負けない、
という勇気と励ましをパパに与えてくれた。
その日、脚の痛みから自宅で待機していた君に「合格」の通知と「入院」の話を、
一度に伝えなければならなかったのは、本当に辛かった。


入院後の厳しさ、治療の苦しさ、髪の毛の抜ける辛さ、
何をとっても言葉には言い尽くせない不安。
ほんの数週間前までは、
普通の女の子として、楽しい小学校生活を送っていたのだから。
一方で、パパもママも妹の知子も、おじいちゃん、おばあちゃん、
おじさん、おばさん、祐子を知る皆が、一所懸命応援した。
君には、半年位の「入院」と偽って、元気になったら
「三輪田中学」にも通えるから、と励まし続け、苛酷な抗がん剤の合間には、
英語や数学の勉強にもチャレンジさせた。
ベットの上で、ただひたすらベットの上で生活する不自由さ、
その中でも君は、得意の絵を器用に描いたり、
「入学祝い」としてパパがプレゼントした「ワープロ」を
殆ど独学でマスターするなどして、病室の幼い戦友達にとっては、
何でも出来る憧れのお姉さん役でもあった。


一時は、切断も覚悟した右脚であったが、
治療6ヶ月目に入り、ようやく薬の効果が表れ、
8月10日右脚大腿骨置換手術が行われた。
その頃の君には、脚の痛みなど全然感じておらず、
なぜ手術まで必要なのか、不思議だったかもしれない。
でもこの大手術を前に、君は妙に納得して手術室に向かってくれた。
手術前のコンファレンスに、君は入院して初めて参加を許され、
小児科や整形外科の先生方から直接、
病気の現状と手術の必要性を論されたからだと思う。
勿論、「骨肉腫」という病名とそれが生死にかかわる病気だ、という事、
また、手術の成否によっては、君の右脚は無くなってしまう、
などという事は伏せたままだった。


術後一ヵ月は、殆ど安静にしていた右脚も、
すこしづつリハビリが始まり三ヶ月後の11月11日、13回目の誕生日には、
車椅子ながら外泊の許可を得て、久しぶりの我が家に戻ってきた。
抗がん剤の治療は依然続いていたが、
一歩一歩着実に回復過程に入った時期で、
パパも精神的には一番落ち着いていた時だったろう。
君も後に、手術前が一番つらかった、手術後は不自由でも、
早く時間が過ぎたような気がする、と打ち明けてくれた。


その年は暮れ、翌年はいよいよ退院、
君は初めて三輪田の制服を着て名実共に中学生に復帰する年だ。
3月まで続いた化学療法も予定通り終わり、リハビリも君の頑張りで順調に進み、
松葉杖で歩けるまでに回復した。
退院の日まで決定した日、病院の近くの料理屋さんで、
パパとママは、一年数ヶ月振りの祝杯をあげた。
「本当に頑張った。本当によかった。」それ以上の言葉はいらなかった。

そんな喜びもつかの間、
退院が数日に迫った4月の半ば、最後の検査で「転移」の事実。
余りにも無情な現実であった。
ここまで頑張った君に何と言って納得させればいいのか、
パパは、本当に無力であった。
取り敢えずの退院、何も知らされていない君は、得意のワープロで、
入院中お見舞いをいただいた人達に「退院の通知」状を、
実に手際よく、要領よく作成した。
退院の喜びと希望が心の底から伝わってくる名作、傑作だ。
君の残したワープロのフロッピーで、後日これを目にしたパパは、
涙をこらえることが出来なかった。

5月からの再入院では、
度重なる抗がん剤治療を受けてきた君の体には、もう限界が見え、
放射線による治療、痛み止め効果の治療が主目的となった。
8月には、退院し通院による治療に切り替えた。
この時のママの決断は、
君の人生の最後の三ヶ月を充実した三輪田学園での中学校生活を可能にした、
という点で、特記すべき英断であった。


親の欲目もあるだろうが、
君は、人並み以上の才能に恵まれ、
不思議な知恵と能力に長けた子供だったと思う。
その君が、長い病床にあって、
自分の病気についてどこ迄、何を知っていたのかは、
今となっては永遠の謎となった。
「私の病気は何なの?」とは、正面きって聞いてはこなかった。
聞かれたらどうしよう、との不安もあったが、ごまかす事しか考えていなかった。
君の将来、未来は、常に明るく輝いているべきなのに、
今以上の不安を与える事が、パパには耐えられなかった。
脚の不自由さから、走ることは無理でも得意の水泳は大丈夫だろう、
自転車も乗れるようになるだろう、
だから頑張ろう、そう言って励まし続けて来た。

君が「告知」を受けたのは、君が永遠の旅立ちをする一週間前、
聖路加国際病院の病室で、担当の細谷先生からであった。
この時も「死」についての真っ向からのお話しではなかったから、
君がどう捉えたか、は想像の範囲でしか判らない。
しかし、意外にも君は、取り乱す事もなく、落ち着いた表情に
何の不安も示さなかった。
それがとても不思議だった。

ママの夢の話を聞いて、あの時の光景がよみがえった。
君は、確かに色々と想像し、不安になり、何となく知っていたのかもしれない。
君の為に隠し通したつもりであったが、
君はもっと早くはっきりと知りたかったのだろう。

今、君はあの世からパパを見下ろして、
君のベットの横で最大限に突っ張り、強がっていたパパが、
本当は泣き虫の寂しがりやだ、とすっかりお見通し済みだろう。
もうパパは、君に何も隠す必要はなくなった。
いつの日かそちらの世界で君と再び巡り会うまで、
君に笑われないよう、不器用ながらもしばらくこの世界であがいてみようと思う。

最近ママが、
天国の君から時折メッセージを受け取る、と言う。
パパは負けじと「いつも祐子が見えている。」と、やり返す。
そんなやり取りを君は天国から楽しそうに見守って、
また悪戯っぽく笑って手を振っている。



(平成8年12月 : 祐子一周忌に記す)

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